2回目以降のご相談については通常は初回のご相談のときに日時を決めます。
しかし初回のご相談で2回目以降の日時を決めなかった場合には、改めて上記の「お申込みフォーム」にご記入の上、お申込みください。
わたしは学生時代には野球部で活躍したこともありましたし、職場ではムードメーカー役を買って出たりしていましたから、自分では性格的に明るく、うつ病などとは無縁の人間だと思っていました。
それが一転したのは、ある外資系の証券会社へ転職してからでした。それまで25年間をある大手の銀行で過ごしましたが、銀行は自分の将来が見えるのが早く、大した出世は望めないことが分かりましたので、早々に転職したのです。その会社には、よく知っていた先輩が転職していたことから、仕事のことなど聞いていて興味がありました。もっとも、先輩は必ずしも転職を勧めていたわけではありませんが、わたしには給与面などで、前の会社より魅力を感じていたのです。
しかし、転職してから、先輩が余り勧めていなかった理由がよく分かりました。すべてが実績主義で、最初から高いハードルが設定されていました。そのハードルを越えれば高い給与が保証されているのですが、ハードルを大きく下回れば、給与は前の会社以下で、しかも下手をすればクビになってしまうのです。これはある程度、予想もし、覚悟もしていたことでしたが、実際には想像した以上に厳しいものでした。入ってから、後悔しましたが、先輩にそれを言えば、きっと「それ見たことか」と言われるに決まっていると思って、本当のことは言いませんでした。妻やこどもたちは給与が増えるということを喜んで、転職に賛成してくれましたから、弱音を言うわけにもゆきません。
回りの同僚は、銀行や証券会社からの転職組がほとんどで、その多くが留学組でした。わたしは5年近くアメリカの支店で勤務したことがあり英語には自信がありましたが、留学でMBAを取った連中には、仕事で圧倒されて自信を失っていました。それまで仕事で負けたことはなく、自信がありましたから、これはショックでした。しかし、それを撥ね返そうと必死で仕事をしました。深夜の一時、二時くらいまで会社に残るのは当たり前で、一年間はほとんど休みらしい休みを取ったことがありません。その甲斐もあって、一年目の成績は悪くなく、なんとか高いハードルを乗り越えることが出来ました。しかし、二年目に入って間もなく、先輩が体調を壊して会社を辞めてゆきました。過労が原因でした。わたしはこれが他人事ではなく、明日は我が身という気がしてショックを受けました。少しばかり気が許せる先輩が居なくなってみれば、あとの周りは熾烈な競争相手ばかりで、相談する人間もいなくなってしまいました。昔の銀行の同僚が懐かしくなって一緒に酒を飲みに行ったりしましたが、本当の悩みは口に出せず、むしろ仕事が順調で、給料も高額だなどと強がりを言ったりしていました。ところが、実際は一年目を必死に乗り越えた反動からか、成績が落ちる一方で、これではいけないという気持ちだけが空回りしていました。何をやっても駄目だという無力感と、将来に対する不安を強く感じ始めました。しかし、自分はうつとは無縁の人間と思い込んでいましたから、これがうつの前兆だと考えることもありませんでした。仕事は相変わらず残業の連続でした。ところが、ある朝、電車の中で激しい心臓の痛みに襲われました。異変に気が付いた乗客が親切にも停車駅で駅員に通報してくれて、都内の病院に救急車で運ばれました。
ところが、精密検査を受けても心臓に異常が見つかりません。医者に残業のことや休みが無いことなどを言いますと、疲労とストレスによる一過性のものだろうと言います。しかし、原因がよく分からないというのが気になりました。それからは、また通勤途中で同じことが起きはしないかと電車に乗るのが怖くなりました。いわゆるパニック障害です。しかし、いわばこれは表面上のことであって、もっと深刻なうつが、その背後で密かに進行していたのです。わたしはパニック障害のせいにしていましたが、実のところ、仕事に手が付かない状況になっていました。やらなければならないことが目の前に山ほどあるのに、どれから手を付けたら良いのか、頭が混乱したようになって手が付けられないようになっていました。それまでは簡単に手が付けられたものが、出来ないのですから、わたしは自分の頭がおかしくなったのだと思って、これもパニック障害のせいにしていました。
やがて会社に出ても苦しいばかりになりましたから、思い切って休むことにしました。このときの敗北感は相当なものでした。もうこれで自分もおしまいかと思うと、なんとかしなければと思う焦りがありましたが、一方で何も出来ない自分に絶望していました。わたしは、すべてはパニック障害に原因があると思って、いくつかの精神科やクリニックに通いました。いずれも、わたしが思ったとおりパニック障害の診断で、薬も貰いました。確かに、それで一時は精神も安定し、不安が弱まったような気がしました。しかし、いつまで経っても、会社に復帰しようとする意欲が湧いてこないのです。焦りはあるのですが、その焦りは単に空回りするだけで、具体的に行動に結びつかないのです。
それが三か月ほど続いたある日、わたしは人事部長に呼び出されました。ついに解雇です。これほど人生で奈落の底に突き落とされたような経験はありません。妻は心配もし、覚悟もしていましたが、やはりショックを受けていました。二人の息子はいずれも大学生になっていましたが、学費はアルバイトで稼ぐと言ってくれました。妻も慣れないパートに出ると言ってくれました。このときほど家族を有難いと思って泣いたことはありません。同時に自分の不甲斐なさにも泣きました。わたしは本気で死ぬことを考えていました。しかし、そのわたしを引き留めたのは、二男の一言でした。「パパがどんなになっても構わない。しかし、死ぬことだけは絶対に止めてくれ。僕たちにはパパが必要なんだ。」この言葉を聞いたときは、本当に泣きました。
妻は、とにかくわたしの病気を治すことが先決だと言って、一緒に良いクリニックなどを探すことを手伝ってくれました。そのとき、東京メンタルオフィス(お茶の水メンタルオフィスの前身)に偶然出会ったのです。斎藤先生は、確かにパニック障害はあるけれども、もっと深刻なのはうつ病ではないかと言って、パニック障害の治療と併せてうつ病の治療を勧めてくれました。それまで、どの病院でもクリニックでもうつ病のことはほとんど指摘されませんでしたので意外でした。先生は、うつ病には薬が効くことが多いと言って、ある病院で投薬を受けることを勧めてくださいました。確かに、うつ病の投薬は効果がありました。パニック障害だとばかり思い込んでいたのも誤りだったと分かりました。しかし、投薬の効果は限定的で、あるときから余り効果があがらなくなりました。そこで、斎藤先生のカウンセリングを本格的に受けることにしました。
先生からは家族の協力が不可欠だと言われました。幸い、妻にそのことを告げると、治療に協力してくれると言ってくれました。そして、妻も先生から一緒にアドバイスを受けることになりました。要は、それまで仕事に復帰しなければと焦っていたことを一旦白紙状態にしようと言うことでした。そして、まず、それまで空回りして疲れ切っていた脳を休めることから治療が始まりました。仕事人間だったわたしが仕事のことや就職のことを全く考えないということは、ある意味では辛いことでした。しかし、先生のおっしゃるとおり、仕事のことは一切考えずに、行ってみたい外国旅行のことや、やってみたい趣味のことなどできるだけ楽しいことばかりを考えて過ごしていました。実際、それらは定年になったらやってみたいと思っていたことばかりでしたから、頭の中で考えるだけでも楽しいものでした。一方で、こんなことばかり考えていて良いものかという気持ちもありましたから、正直に先生に話すと、それが几帳面で生真面目な性格の現れで、それがうつ病の原因にもなっていると言われて驚きました。先生によれば、うつ病になる人にはある共通した性格があるというのです。しかし、この性格は生まれ持ったものですから、そう簡単には変えられません。それを先生に言いましたら、そういう性格は世の中で成功するには必要で有用なものだから変える必要はなく、ただ、そういう悪い面も持っていることをよく認識して、場合によって制御してゆくことが大切なのだとおっしゃられたので納得いたしました。
この性格は完全主義にもなって、何事にも正確さが求められた銀行では大いに役立ったのだと思います。それが運よく銀行時代には破たんせずに済んだということだろうと思いますが、行き過ぎた完全主義がわたしをにっちもさっちも行かない状況に追い込んだのだということがよく分かりました。制御できていれば、極めて有用な性格であったのですが、わたしはそれを制御できていなかったということなのです。
先生のカウンセリングは、わたしの考え方を一変させるものでした。それまで、自分が信条とし、絶対的に信じ切っていた信念までも覆すものでした。というより、自分の信念の良いところと、悪いところを峻別することを教えていただいたと思うのです。
自分の良いところと悪いところを見つめなおす良い機会にもなりました。先生の生活指導もあって、日常の生活も大きく変わりました。会社を休んでからは起きる時間も寝る時間もばらばらで、体調が悪いときは昼と夜が逆転したような生活を送っていたこともありました。しかし、人間の体、とくに脳には、一定のリズムがあって、これを崩すことが体にも、脳にも大変な負担を掛けるものだということも知りました。
先生のカウンセリングで認識の誤りを正し、生活を一定のリズムあるものにしたことで、気分が随分と変わってきました。それまでは、何をやっても駄目だという喪失感のようなものに捉われていたと思いますが、少しずつ何かやってみようという気持ちに変わっていました。まずやったのは、妻に同行してもらって、今まで行ったことがなかった上海に観光旅行に行ったことです。これは大きな転機になりました。上海が素晴らしかったこともありますが、その素晴らしさを素直に受け止められるようになった自分に回復への手がかりを感じていました。それまでのわたしであったら、素晴らしい景色を目の前にしても、何の感動も無かったと思うのです。帰国してから、しばらくして、先生に再就職を探してもいいですかと伺いますと、余り無理をしないように、とくに高望みはしないようにとの条件で許していただきました。しかし、年齢も、もう五十歳を過ぎて再就職にはかなり不利でしたが、先生のアドバイスに従って、無理をせず、高望みもせずに、1日1社と決めて紹介を受けたりしていました。探し始めて一ヶ月余りで、幸いある不動産会社が資金調達の専門家として採用してくれました。給与はとても前の会社や銀行には遠く及びません。役職もありませんでしたが、さほど気になりませんでした。もし、先生からわたしの性格を制御することを教えていただいていなかったら、きっと、不満ばかりが残って、もっと良い条件のところを諦めがつくまで探していたかもしれません。いまは、むしろ、この年齢で再び比較的まともな仕事に就けたことを喜んでいます。世の中には、再就職に恵まれない人はいくらでもいるはずですから、自分は幸せだと思えるようになりました。完全主義的で高望みする性格を制御することを学んでいなかったら、また、頑張りすぎてうつ病を再発することになったかもしれません。そういう意味では、先生には単にうつ病を治していただいただけでなく、人生の考え方さえも修正していただいたと感謝いたしております。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしは教習所で教官をしておりました。ですから百人でも二百人でも大勢の前で話をすることは全く苦痛に感じませんでした。ところが、相手が一人だったり、数人であったりすると緊張して話が出来なくなってしまうことで苦しんでおりました。このことで初めて斎藤先生に相談したとき、非常に驚かれました。大勢の前で緊張して話せないという人は幾らでもあったけれども、あなたのような人は全く初めてだと言うのです。実は、先生と会うまでに病院の精神科を幾つも受診したり、メンタルクリニックなどにも行っておりました。そのたびに、それは贅沢な悩みだと言われて、ほとんど相手にされておりませんでした。ですから、病院はどこに行っても薬も出して貰えませんでした。しかし、先生は非常に珍しいと言いながらも真剣に話を聞いてくださいました。
きっかけを聞かれましたので、恥ずかしいとは思いましたけれど、思い切ってお話しいたしました。実は、このことが始まったのは高校生のときに失恋してからです。わたしはもともと内気なほうでしたから、好きな人にも正直に告白することが出来ませんでした。しかし、当時ほんとうに好きな人がいて、夜も眠れないようになりました。そこで勇気を奮って一度会って欲しいと手紙を書いたのです。いまから考えると、よくそんなことが出来たと思います。よほど苦しんでいたのだと思います。手紙は出したものの断られるのではないかと内心不安でしたが、会ってくれると連絡がありました。嬉しい気持ちの反面、これは大変なことになったという気持ちもありました。自分は何をどう言ったら良いのかと思うと頭が空転して苦しみました。そして、いよいよ会う日になりました。わたしは初めから上がってしまって何を言ったら良いのか言葉が出ませんでした。何も言えないまま十分近く一緒にいたでしょうか。その時間がひどく永く感じられました。もう地獄のようでした。彼女は何の用なのかと何回か訊いたと思います。そのたびに、わたしは「えーと」とか「何でもない」みたいな馬鹿なことばかり言っていたと思います。彼女が苛立つのが分かりましたが、ただ冷や汗が出るばかりでどうしようもないのです。彼女は怒って立ち去ってしまいました。当然でしょう。わたしは不甲斐なさと馬鹿らしさで自分がほとほと嫌になりました。
それ以来、わたしは特に好意を感じる女性と面と向かって話が出来なくなりました。体全体が火照って冷や汗が出てくるのです。それがやがて特に好意を感じるわけでもない女性にも同じように話が出来なくなりました。それでも高校生のときはこの問題は女性に限られていました。
ところが、大学生になるとこんどは男子学生にも同じ問題が出てきました。わたしはど田舎の高校から東京の私立大学に進学しました。周りには知っている友人がいませんでしたから、たまたま同じクラスになった学生と仲良くやりたいと思っていました。その一人とあるとき喫茶店で向かい合っていますと、女性のときと同じように冷や汗が出て来るのです。そして、落ち着かなくなって話をするどころではなくなりました。もう向かい合っていることもままならなくなって、お互いに気まずくなりました。早々に店を出たのですが、この学生に、「君は相当に変わっているね」と言われたのがショックでした。同級生からは変人と思われていたに違いありません。とうとう親しい友人というものが出来ませんでした。
大学を卒業してある県の警察官になりました。わたしのような内気な性格で警察の仕事が務まるのか心配でしたが、意外と規律が厳しい生活は性に合っていました。特段わたしの性格が問題となるようなこともなかったと思います。ただ、結婚は見合いですが、かなり苦労しました。なにしろ、女性と二人だけで話すのは相変わらず苦痛でしたから話が弾みません。十回以上は見合いをしたと思います。幸い、いまの妻はおおらかな性格で、わたしが極端な内気でも全く気にしませんでした。妻にはほんとうに感謝しています。彼女のような包容力がある女性で無かったら一生結婚することは出来なかったと思っています。
警察では交通畑の仕事を長くやっておりました。そこで退職後は自動車免許の関係で教習所の教官をやっておりました。いつも多くの受講生を前にして講義をするのですが、大勢の前で話すのに不安を感じたのは最初の頃だけで、いつの間にか全く苦痛でなくなりました。
ところが、少人数の場になると、途端にその輪に入ってゆくことが出来ませんでした。この教官の仕事も終わって、あとは永い老後が待っていました。老後こそは親しかった人たちや新しい友人たちと楽しく語らいたいものだと思っていましたが、どうしてもそれが出来ない自分が情けなく、苦しんでおりました。そのとき先生のことを知って相談いたしました。
先生に失恋の話をしたときのことが今でも忘れられません。先生は、幸い自分にはそういう酷い失恋の経験が無いけれども、似たような経験は誰にでもあるのではないか。思い焦がれた恋人であればあるほど、その前で話が出来なくなることは分かるような気がする。恋愛でなくても、例えば、自分の目の前に永い間憧れていた女優でも現れたら、わたしでも一言も言えないだろう。とくに木村佳乃や仲間由紀江のような美人女優が突然目の前に現れたら茫然自失でしょう。こういう人を前にして何も言えない自分が死ぬほど恥ずかしいかもしれない。いつまでもそれを悔やむかもしれない。そういうことはきっとあり得るだろうね、とおっしゃるので面白い方だと思いました。そして、だから、そういうことで苦しむこと自体は異常なことでもなんでも無い。ただ、通常、そういうことで困った経験があっても、異常なこととは思わないからやり過ごしてしまう。恋人の前で一言も言えなかったなんて経験は多くの男性ならしていると思う。そのときは恥ずかしいとか、残念だとか思っても、そういうことは当たり前のことなんだと思えば、時間が経つに連れてさして、気にしなくなる。だから、悩みとして固定しないのだけれども、あなたの場合は、それが異常なことと思ったのじゃないですか。こんな失態をするのは自分だけで、ほかの人はこんなことにはならないと思い込んだから、それを気に病むようになったということなんじゃないでしょうか、とおっしゃったのですが、わたしはまさにその通りだと思いました。それまでは、どの病院に行っても、そんなことで悩むのがおかしい、贅沢だ、と言われ続けて来たのが初めて理解者を得たような気持になりました。今から思えば、人前で話せない悩みなんて大したことではないのですが、その大したことでないことが、わたしにとっては大変なことであったのです。わたしは先生のこの言葉を伺ってから、この方の指導を受けてみようという気持ちになりました。とにかく永い老後を妻以外の人間と付き合うこともない寂しい生活は送りたくないと強く思っていました。
原因については、先生がおっしゃる通りだったのですが、じゃあ、どうしたら治るのかということになると、先生にも難しかったようです。色々と試行錯誤をされたと思います。最も効果があったのは、元同僚が集まっていた警察のOB会です。ここでは囲碁や将棋などの同好会がありました。以前は、こういうところは苦手だったのですが、先生に勧められて将棋の同好会に参加することにしました。将棋は好きでしたし、将棋を指している間は相手と話すことも無いのですからさほど苦労は無かったのですが、辛かったのが終わってからの懇親会でした。将棋の話よりも世間話やOBについてのよもやま話なのですが、わたしは案の定困ってしまいました。先生からは、話はしなくても良いから、とにかく相手の話に相槌を打つことと言われていました。自分で話そうとすると焦ったり、苦しくなったりしていましたが、聞き役なら出来ました。そういうことを繰り返しているうちに、聞き役に徹していても会話というものは成立するものなのだということに気が付いて、大きな発見をしたような気持になりました。それまでは、何かしゃべらなければならない、しゃべらなければ人間として失格なのだというような強迫観念を持っていたような気がします。こうして聞き役に徹していても大丈夫なのだということが分かって心に余裕が出て来ると、適当に受け答えが出来るようになってきました。大抵は、「へえ、そうなんですか?」「驚きですますね」「それは大変だったでしょう」などと、いまから考えると、いかにも幼稚な反応なのですが、それでもそういう反応を返すと、相手が喋りやすくなるのか一層雄弁になるのが面白いと感じるようになりました。それまでは、人の輪に入ってゆくのは一大決心が要ったものですが、最近は、とにかく入ってみようという気持ちに変わってきました。しかし、いまでもどうしても話に馴染めないということはあります。それがどういう場合なのか、先生に報告して聞いてもらいます。そうすると、先生からは誰だって詰まらないと思ったり、馬鹿馬鹿しいと思ったりする話題というものはあるのだから、一々気にすることはないと言われます。正直言って、いまでも会話に加われないことがあると、自分に悪いところがあるのではないかと悲観してしまいます。先生は、そういうところが神経質者特有の完璧主義の現れなのだとおっしゃられます。自分でもそうなのだろうと分かって来たような気はしています。
まだ、完全に克服したとは言い切れないと思っていますが、先生からは大変な進歩だと言っていただきました。確かに、海外旅行などに行って、見ず知らずの人たちの輪の中に自分が自然にいることなどがあると、随分と変わったものだと自分に感心することがあります。妻からも人が変わったようだと言われて喜んだりしています。まだまだ克服しなければならないことはたくさんありますが、いまは老後の人生が開けて来たような気がしています。先生に感謝です。
(斎藤後記)
わたしも初めてこの方の相談を受けたときには大変驚きました。しかし、人間はどんなことでも悩み、苦しみ得るものだという実例を目の前にしたと思って、大変興味を覚えました。そして、通常では考えられないと思えるこの方の苦しみの中に、人間の悩みの本質があるように思って、徹底的に研究してみたいと思いました。研究などと言うと大変失礼なのですが、結果的にはそれが良かったのだと思います。色々と試行錯誤はありましたが、よくアドバイスに付いてきてくれたと思っています。海外旅行で見ず知らずの人たちと仲良くなれたという話などを伺っていますと、もう健常者と変わらないと思いますが、まだ、本人は満足していないようです。理想を高く設定しているからだと思いますが、そういうところが神経症者の特徴で、もう普通の人とちっとも変らないのに、いつまで経っても不全感を抱えています。自分のあら捜しをしているようなものなのですが、世の中には、誰が見てもひどいと思う欠陥を抱えていながら本人は全く気にしないという人も多いのですから神経質者というものは本当に損な性格ではありませんか。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしはもともと内気な反面、負けん気もあるという複雑な性格だったと思います。短大を出てから秘書の専門学校を出て、いまの会社に入りました。秘書を希望していましたが、配属先は総務部門でした。会社の庶務的な業務を担当する部署で、社内外の人の出入りが多いところです。わたしが入社した頃は、女子社員は配属されてから後輩が入って来るまでお茶くみをさせられるのが慣例になっていました。さすがに最近は外部の重要なお客様だけにお茶を出すというように変わっていますが、当時は社内でも課長などの幹部クラスが来るとお茶を出していました。
職場に配属になって早々のことです。やはり社内の上の方が来られて、応接室で課長と打ち合わせをしておられました。わたしは先輩に言いつけられてお茶を出したのですが、初めてのことで緊張してしまいました。そして、こともあろうに打ち合わせのテーブルに置いてあった大事な資料の上にお茶をこぼしてしまったのです。慌ててハンカチで拭こうとしたものですから更にお茶碗を倒して大変なことになりました。しかも、ハンカチで拭おうとした資料を力余って破いてしまったのです。もうわたしはどうしたら良いのか分からなくて気が動転してしまいました。わたしは年甲斐もなく半べその状態でした。課長がその場を収めてくださったので、大事には至りませんでしたが、しばらくはそのことがトラウマのようになってお茶を出すのが怖くて仕方がありませんでした。しかも、このことは社内の女性社員の間に有名になって、「今年の新人はお茶もまともに出せない」というような陰口が叩かれていると同期の友人から聞かされてショックを受けてしまいました。
それからはお茶を出すときに緊張して震えるようになりました。最初は、応接室に入ってから震えたのですが、それが給湯室でお茶を入れている間に震え、やがて、お客様を見ただけで震えるというように悪化してゆきました。課長も、わたしが緊張してまた失敗しやしないかと心配したのでしょう。大事なお客様のときは先輩にわざわざ頼んでいました。これが屈辱的で恥ずかしいと思っていましたら、先輩たちが聞えよがしに「なんで、あたしがお茶くみしなきゃあならないのよ」と言うのが耳に入って来るのです。わたしはもういたたまれない気持ちでした。そのうちに、仕事に慣れて来てから仕事の進め方などで先輩と意見が合わないことがありましたら、「お茶出しひとつまともに出来ないくせに生意気言わないでよ」などと言われて、ひどく落ち込んでしまいました。そして、自分は人間失格だと思い詰める半面で、お茶出しくらいのことで、なぜこんなにも言われるのかと思うと悔しい気持ちもありました。負けん気もあったのだと思います。仕事では絶対に負けないぞという気持ちで人一倍頑張ったと思います。先輩たちがいい加減にやっていた伝票整理なども夜遅くまで掛かってきちっと整理したりしていましたから、上司から褒められたこともあります。しかし、これがまた先輩たちの反発を買うようなことにもなりました。職場には同期の同僚もいませんでしたし、しばらく後輩も入ってきませんでしたから、ひとり孤立したような期間が長く続きました。女子社員だけのミーティングなども頻繁にあったのですが、先輩たちには無視されたり、根拠なく反発されたりすることが多く、発言しようとすると緊張して震えるようになりました。そして、声が上ずるようになってみっともなかったものですから、よほどのことが無い限り発言するのを止めるようになりました。
入社して2年目のときに生まれて初めてお見合いをしました。都内のレストランで先方のご両親とわたしの両親が同席の形で食事をしながらという形でした。こういう堅苦しい場での食事に慣れていなかった所為もあると思うのですが、ナイフとフォークを持つ手が震えてお皿がカチカチと鳴るほどなのです。母が横目で注意するのが分かって余計に緊張してしまいました。それからはもう食事をするどころではなく、話も上の空になってしまいました。その所為かどうかは分かりませんが、この見合いは断られてしまいました。
それからは見合いはこりごりだと思って、話があっても断り続けていました。ですから結婚したのは30歳間近のときでした。会社の先輩で一緒にスキーなどに行ってよく知っていました。以前から心を惹かれるところがあったのですが、話をしようとすると緊張してしまうものですから避けるようにしていました。それが彼にはわたしが慎ましく控えめに映ったようですから、何が幸いするか分かりません。彼の熱心な誘いがあってゴールインすることになりました。結婚に対する憧れもありましたし、年齢も三十歳になる前にと思っていましたからちょうど機が熟していたのだと思います。しかし、わたしは何事にもきちんとしていないと済まない質でしたので、彼のいい加減な性格が目につくようになりました。プライベートなことなので多くは申し上げられませんが、1年もしないうちに離婚することになりました。両親は彼のことを気に入っていましたから、猛反対されましたが、わたしは気持ちが冷め切ってしまいましたからどうしようもありませんでした。会社も居づらくなって辞めてしまいました。
前の会社にいたときに不動産関係の資格を取っていましたので不動産会社に再就職しました。街の不動産屋に毛が生えた程度の小さな会社ですが、人が少ない分、なんでも自分ひとりでやらなければならず忙しい反面、充実感のようなものもありました。一年間必死に働いていましたら、社長の目に止まったのか、いきなりある地区を担当するグループのリーダーに抜擢されてしまいました。うれしい反面、大変なことになったという気持ちでした。ほんの4,5人のグループなのですが、中にはわたしより年上の男性もいますし、年齢は若くてもわたしより経験豊富な者ばかりなのです。ですからグループミーティングなどしても知識不足や経験不足を指摘されるのではないかと常に緊張してビクビクしていました。なんとなくミーティングを開くのが嫌だということもあって、横の意思の疎通がうまく行かないことがありました。互いの連絡ミスで大きな契約物件を逃してしまったこともあります。社長からは大目玉を食らいました。このままではいけないと思い、なんとか緊張せずに仕事が出来ないものかとインターネットで調べていましたら、生活の発見会(注:神経症や恐怖症を森田療法で克服しようとする人たちが集まる自助組織)があって、集談会というものがあるのを知りました。心療内科やクリニックに行くのは抵抗がありましたから、こういうものがちょうど良いと思って、住まいの近くにあった集談会に参加しました。対人恐怖の方が多く、悩みや苦しみを伺っているうちに自分と同じような経験をしている人が多いことに驚きました。いままで人前で自分の悩みを話すなどということは一度もありませんでしたが、ここでは何を憚ることなく話せて、それだけで気持ちが楽になったような気がします。これなら自分の緊張も治せるのではないかと思い、毎月参加しました。森田療法関係の本も何冊か買い勉強しました。時間があれば初心者向けの勉強会などもあると知っていましたが、そこまでは時間がありませんでした。集談会で先輩たちの話を聞いたり、本を読んだりして、森田療法も分かってきたような気がしていました。仕事のうえでの緊張も以前ほどは酷くないように思えました。しかし、いまひとつ理解しきれていないのかいつまで経っても緊張から解放されないことに不満を感じていました。景気が悪い所為もあって、社長からの要求も次第に厳しくなって、ただでも職場で緊張を強いられるようになっていました。わたしは森田療法に言う「あるがまま」ということを実践しようと悪戦苦闘していたと思います。緊張や不安があっても、それを受け入れて「なすべきことをする」のだと言い聞かせながら仕事に立ち向かっていました。自分は森田療法をやっているから絶対に克服できるのだと言い聞かせていました。
ところが、あるとき集談会で対人恐怖を克服したという世話人の方が、「あなたくらいの震えは大したことはない。そう目立つものではないから気にすることはない」とおっしゃるのです。わたしはなかなか苦しみから脱出できなくて苦しんでいたときでしたので、大したことがないと言われて困惑してしまいました。気にすることはないと言われたことも、気にするのがおかしいと言われたようで自信が無くなってきました。このまま続けていて、いったい自分は克服できるのだろうかと疑心暗鬼になっていたときにお茶の水メンタルケアサービス(お茶の水メンタルオフィスの前身)を見つけました。
これまでのことを正直に斎藤先生にお話ししますと、わたしも世話人の方も肝心なところで勘違いしていると言われて目を洗われたような気持になりました。
まず、わたしが職場で緊張から逃げずに「あるがまま」ということを実践しようとしていたことは非常に良いと褒めていただきました。しかし、緊張から逃れようとしている限り逃れることは出来ないとおっしゃいました。そして、すべきことに意識を集中することが重要なのだというのです。わたしがそれが難しいのですと泣き言を言いますと、誰も最初から出来るなら苦しむ人はいない。そういう意識でやることが大切で、緊張を取ろうとしてはならない。そういう意識でやってもなお緊張を感じることを「あるがまま」と言うのだとおっしゃいました。わたしは「あるがまま」と言いながら、緊張を取ろう取ろうと出来ない努力をしていたのです。「あるがまま」ということの難しさを痛感いたしました。
世話人の方については、本人が克服してしまうと、つい自分が昔苦しんだことを忘れてしまって、他人の苦しみを大したことはないと言ってしまうことがあると言うのです。森田療法をよく理解しないまま克服すると却って誤解を与えるような指導やアドバイスをすることがあるので、苦しんでいる人は混乱してしまう。先輩の言葉を鵜呑みにすると危険なことがあるとおっしゃいました。「気にすることはない」というのは、森田療法をよく分かっていない証拠で、一般の人のレベルだともおっしゃいました。
わたしは先生のお話を伺って目から鱗のような気持になり、先生のご指導を受けることにしました。そして、毎回、職場で自分がどのようにして克服しようとしているか細かくご報告しました。それについて先生が、何が良くて、何が悪いかを懇切丁寧にご指導くださいました。先生のお話は逐一本当に納得できるもので、わたしは徐々に間違った認識を改めてゆくことが出来ました。
お蔭で随分と気持ちが楽になりました。以前なら、翌日のミーティングのことを考えるだけで眠れないほど緊張していたのが嘘のようです。もちろん、翌日のことを考えてあれこれと悩むことはありますが、今はそれを当然のこととして受け入れることが出来るようになりました。仮に眠れない夜があっても、翌日の打ち合わせが極めて重要で大切な場合には、むしろ当然だと思えるようになりました。おそらく、それはわたしのように緊張に苦しんで来た人間ばかりでなく、健常者の方でも同じだと思うのです。それを先生に言いましたら、「そのとおりです。そう思えるようになれたというのはもう立派に克服できた証拠です」と言って褒めていただきました。わたしは嬉しくて、思わず胸を熱くしてしまいました。
わたしが長い間苦しんで来たことはちょっとした考え違いによるものであるというのが、今ほんとうに分かった気がしています。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしの不潔恐怖が始まったのは小学校の高学年の頃からでした。理科の時間に顕微鏡で黴菌の毒々しい姿を見て物凄く不快な気持ちになりました。それからは、自宅でも学校でも机の上に黴菌がうようよいるような気持ちになって、まず、雑巾で綺麗に拭かないと勉強できなくなりました。そのうちに、その雑巾から黴菌が手に移って、手が黴菌まみれになっているのではないかと恐れるようになりました。それから手を頻繁に洗うようになりました。洗面所の石鹸がすぐに無くなってしまうので母からは、どうしてそんなに手ばかり洗っているのかと呆れられ、怒られることもしばしばでしたが、どうにもなりませんでした。中学生になってから、近くの大学病院の精神科に通いましたが、効果はありませんでした。この頃は、自分も両親もこれは深刻な病気なんだと諦めていました。医者でも薬でも治らなかったものですから、どうにもならないものだと思い込んでしまいました。最もひどい頃は石鹸も日に2,3個は使い切ってしまう有様で、家計の負担になっていたと思います。
高校を卒業してからコンピューターの専門学校に入りました。コンピューター関係の仕事なら清潔な職場で働けるのではと思っていたからです。卒業後、あるソフト開発の会社に就職しました。ところが、仕事場はいつもデーターや様々な資料が乱雑に散らばっているようなところで、とても清潔とは言えませんでした。自分専用のパソコンで仕事をするには問題が起きませんでしたが、高度な機能を持ったパソコンは何人かで共有して使っていたため問題が起きました。ほかの人が使ったあとにキーボードを打つと、手が汚れたような感じがして、すぐに手を洗いに行かなければなりませんでした。職場の同僚に気が付かれないようにこっそりと行っていたのですが、気が付かれないはずがありません。上司と人事評価の面接のときに、これに付いて訊かれたのにショックを受けました。そのときは、清潔好きなものでと言って切り抜けましたが、これ以来、手洗いに行きにくくなりました。そうなると、一層、この事が気になり仕事になりません。適当な理由を作って外出しては喫茶店で手を洗うなど通常では考えられないようなことをしていました。しかし、こういうことがいつまでも続けられるはずがありません。入社して2年くらいで、ある程度仕事を覚えましたので、退社して、独立することにしました。いままでいた会社や、仕事で関係があった会社から開発の仕事を貰って自宅で作業することにしたのです。この頃は実家を出てアパートで暮らしていましたから、家賃だけでも大変でした。生活するために必死で働きました。仕事は納期どおりにきちんとしていましたから、順調に仕事は増えていましたが、大きな仕事となると、自宅では出来ないこともあり、発注先の会社に出かけて、先方のコンピューターを使わざるを得ないことも多くなり、何のために独立したのか分からないこともありました。このままでは、せっかく独立したのに、仕事が続けられないのではないかと不安を覚えるようになりました。そのとき、インターネットでお茶の水メンタルケアサービス(お茶の水メンタルオフィスの前身)のことを知り、藁をもつかむような気持ちで相談しました。初めの頃、先生から足の匂いとか不潔感とかは気になりませんかと訊かれたときには、なぜ、そんなことを訊くのだろうと思いました。手と足では全然違うと思ったからです。すると、先生が、「あなたの理屈から言えば、足の不潔のほうが問題じゃないのか。素足で家中を歩いていたら部屋中にばい菌をばら撒いていることなる。なぜ、それが気にならないのですか?」と言われたときには、めちゃくちゃなことを言うと反発を感じました。先生は対人恐怖だったと伺っていましたから、不潔恐怖の心理は理解できないのだろうと疑ったりもしました。ところが、そう言われてから、この事が頭から離れなくなりました。「どうして足の不潔は気にならないのか」が、わたしのテーマになりました。先生は、「足は汚くて当たり前だと思っているからだ。手だって、その不潔さは足と五十歩百歩でどんなに洗ったってばい菌を取り去ることはできない。健常者はそれを当たり前のことと思っているから平気なのだ。実は、あなたも足の不潔については健常者と同じように当たり前と考えているから気にならない。つまり、あなたの心の中にはちゃんと健常者と同じ感覚があるのだ。それを手についても同様に感じられるようになることが克服への道なのだ」とおっしゃいました。わたしはすぐに割り切ることは出来ませんでしたが、不潔を当たり前と感じることがどういうことなのかが少し分かりかけたような気がしました。自分も足についてはそれが出来ているということなのですから。そして、それまでは、不潔感を取り去ることばかりが頭を支配していましたが、不潔を不潔のまま受け入れるということがどういうことなのかが少し分かったような気がしました。そして、自分が足についてその不潔に無関心であるのと同じ心理状態が手についても出来ないのだろうかと思い始めたのです。
まず、自分は足についてはどういう心理状態なのかを内省してみました。一日中歩き回ったあとなどは、靴下もべとべとで悪臭を放って、いかにも不衛生なのですが、そのこと自体はさほど気になりません。ただ、汚い靴下が手に触れたとなると、それからの手洗いが大変になるだけです。しかし、足を手のように洗おうという気持ちにならないのはどうしてなのかが不思議です。ばい菌だらけの足をそのまま放置する心理状態が不思議です。しかし、これが「当たり前のことと思う」ということなのだと分かって来たような気がしたのです。
先生に、このことを言いますと、先生が「少し分かってきましたね。あなたは不潔感がどうしても取り去れないものだと繰り返し訴えていたけれども、あなたの心の中に不潔感を感じない心もあるということに気が付き始めたんです。足だって、不潔だと思おうと思えば思えるのに、それが不潔恐怖にならないのは、不潔であるのが当たり前だと思っているからだ」とおっしゃるのです。そして、「手も足も同じあなたのものですから、足と同じように、手についてもその不潔に無関心になれるということでしょう」ともおっしゃいました。わたしは、やっぱり手と足では事情が違うと心の中で思いましたが、足のように無関心に出来るものなら、ぜひそうしたいとも思いました。
先生は、まず、「手を洗いたい衝動は永い間の癖ですからすぐに治すのは無理です。洗いたくなったら洗って構いません。ただ、洗いたくなったときでも、仕事を優先して、仕事が終わってから手を洗うようにしてください」とおっしゃるのです。つまり、洗いたい気持ちをそのままにして、優先すべきことを先にするということを繰り返しやってみたらどうかと言うのです。しかし、これもそう簡単ではなく、仕事の途中で手を洗いたい衝動が突き上げて来るのです。そうなると、もう手を洗わないとパニック状態で仕事が手につかないのです。それを先生に言いますと、「無理に衝動を抑える必要はない。衝動を抑えようとするから余計にそれに捉われてしまうのです。どうしても手を洗いたくなったら洗っても構わないけれども、まず、仕事を優先するということを意識して、仕事に支障が出るようなら絶対に洗わないという気持ちでやってみたらどうか」とおっしゃるのです。それからは、仕事に支障が出るだろうかと気にしながら手洗いに行くことになりました。すると不思議なことに、以前は仕事にお構い無しに手洗いに行っていたのに、仕事の進捗状況がまず気になり、手洗いはその次となって来ました。仕事に没頭していると、あとで今日は永い時間手洗いに行かなかったなと気が付くことがあって、自分でも驚いたことがあります。それまでは一日24時間、手洗いのことばかり考えていたような気持ちであったのが、それを忘れる時間があるということに驚きました。それを先生に報告すると、「そうでしょう。仕事に没頭すれば無理に手洗いを止めようなどと考えなくても自然に頭から離れるようになるのです。それが分かれば大きな進歩です。その調子で繰り返してください」と言っていただきました。
それからは当たり前のことなのですが、まず目先にある仕事を優先するということを意識していました。手洗いの衝動はありましたが、無理に抑えることもしませんでした。不思議なことに以前は、手洗いの衝動に負けて洗うたびに敗北感のようなものがあり、自分を責めていました。しかし、自分も仕事に没頭すれば手洗いを忘れることが出来るということで自信を深めていましたから、さほど責めることはなくなりました。それからは、先生に、「今日は朝から仕事で忙しくて夜まで手を洗うことを忘れていました」とか、「今日はトイレに行ったとき以外は手を洗いませんでした」とか報告できるようになりました。いまでも、トイレ以外に日に数回は手を洗うこともあります。しかし、以前のような罪悪感はなく、自然な気持ちとして受け入れられるようになりました。おそらく数回でも普通の人よりは多いと言われるかもしれませんが、手洗いを止めなければという脅迫と闘っていたときの苦しい気持ちはありません。先生にも、「まだ、手を洗ったとか洗わなかったとかが気になるかもしれないけれども、やがて、そういうことすら考えなくなるときが来るから、けっして、洗いたい衝動と闘ってはいけません」と言われています。
相談を始めた頃、先生に、「なぜ、足の不潔は気にならないのか」と問われたときには、少しびっくりしましたが、ようやく、手の不潔も気にならないのが当たり前なのだということがどういうことなのかが分かってきました。そして、自分は永い間、闘ってはならない、あるいは闘っても勝てない衝動と闘ってきたのだということに気が付いたと思うのです。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしはもともとひどい癖字でノートも自分で読み返して分からないほど下手糞でした。大学のときはノートを取っているのを隣から覗かれると気が散って講義を聴くどころではなくなるので、休み時間に席を変えたりしたこともあります。ときおり講義をさぼった友人がノートを貸してくれなどと頼んでくるのですが、恥ずかしくて見せられませんでした。
これではいけないと思って、就職試験の前にペン字の通信教育を受けてみました。少しはよくなったと思いますが、癖字は相変わらずです。
一番困ったのは結婚式や葬儀のときに筆で記帳しなければならないことでした。筆などは小学校以来握ったこともありませんでしたし、もともとがひどい字なのですから、人前で記帳するなんてとても出来ません。緊張の余り手が震えて自分の住所さえ書き間違えるほどでした。あるとき住所を間違えて二本線を引いて直そうとしたら、記帳係の人に笑われてとんでもない字になってしまい、その場から消えてしまいたいほど恥ずかしい思いをしたこともありました。結婚してからは、結婚式でも葬儀でも妻と行くことが多くありましたので、記帳はもっぱら妻にお願いしていました。それでも少しばかり会社での地位が上がって来ましたら、付き合いも広くなり、自分ひとりで行かなければならないことも多くなって来ました。一番困ったのが、グループのリーダー役を任されることになって、朝のミーティングで部下に指示を出すときにホワイトボードに目標や指示内容を書かなければならないようになったことです。目標や指示を皆に徹底する意味で代々リーダーは自分の字で書いて皆に示すということをやって来ました。わたしはこれが嫌でリーダーになるのが恐ろしいとさえ思っていました。ところが年齢が来るとほぼ順番で回ってくるのです。いよいよ回って来たときには真剣に会社を辞めようかと思ったほどです。しかし、妻もこどももいて転職も難しいとなれば辞めるわけには行きませんでした。そこでわたしは恥ずかしいと思いながらも、一計を案じました。ホワイトボードに書かなくても良いようにあらかじワープロで一枚紙にプリントして配ることにしたのです。これには上司から異論がありました。当然予想したことですが、わたしは恥を忍んで字が下手なものですからと訴えました。ところが、字が下手でも構わないから自分の手で書けと言われて万事休すになりました。仕方なく、死んだ積りになって書くことにしたのですが、書いた途端に皆が笑うものですから、もう途中から字が書けなくなってしまいました。それを見かねた上司がプリントでもいいと救いの手をだしてくれましたので、プリントを配ったのですが、もう恥ずかしさで気が動転していましたから、プリントの説明もしどろもどろになって最悪のミーティングになってしまいました。ミーティングが終わってからも自分はリーダー失格だと思うと落ち込んでしまって仕事も手に付かない有様でした。上司もわたしの字が下手なことは知っていたと思いますが、こういう事態になるとは予想していなかったようでびっくりしたようでした。自分で言うのは憚られますが、営業成績もよく、まじめにやって来たわたしのこういう姿は想像できなかったのだと思います。上司も心配して、それからはプリントで良いということになりましたが、わたしは恥ずかしさと惨めさで、しばらくふさぎ込んでいたと思います。これではいけないと思って書道の教室などにも通い始めたのですが、泥縄もいいところです。もっと早く問題解決する方法はないかと思っていましたが、わたしのように人前で字が書けないのは書痙ではないのかと思って、近くのクリニックを探して相談しました。ここで書痙と診断されましたが、治療には時間が掛かると言われ緊張したときに飲むようにと精神安定剤を処方されました。確かに薬を飲むと一時的には緊張が緩んで手の震えも少なくなるような気がするのですが、根本的な治療にはならないと思いました。そこで、インターネットで色々と調べていましたら、森田療法が良いというのがあり、更に調べて行ってこのサイトに行き当たりました。スカイプで相談をするのは初めてでしたので緊張しましたが、斎藤先生も書痙ではないけれども、人前で字を書くのは苦手だとおっしゃったので親近感が湧き一遍で緊張が解けました。先生に、苦手なのにどうしたら書けるのですかとお伺いしたら、「俺の字は下手糞だな。こんな字は恥ずかしいな、と思いながら書いています」とおっしゃられたのが意外でした。そんな風に思ったら絶対に書けないと思ったからです。そして、下手な字を直すことは先生には出来ませんが、人前で字を書けるようにすることは出来ますよとおっしゃるので、ぜひお願いしたいと思いました。
先生に書道を習っているとお話ししますと、出来ることなら続けたほうがよい。やはり字が綺麗なほうが自信を持って書けるからとおっしゃいました。しかし、字が綺麗かどうかは書痙の本質ではない。字が汚くても堂々と書ける人はいる。だから自分が字を書くことに委縮してしまうことがこの病の本質なのだとおっしゃいました。
あるとき面白い実例の話をしてくださいました。先生が東大の学生だったときに脳生理学か何かの教授の字がとても読めない悪筆だったそうです。読めない箇所が一か所や二か所なら学生も質問するのでしょうが、黒板一杯に書かれた日本語や横文字の至る所が読めないもので、誰ひとりとして質問しない。しかし、それではノートにならないので休み時間になると比較的読み取ることが得意な学生の周りに皆が集まって、ああでもないこうでもないと議論し合ってノートを完成させたのだそうです。先生は、自分だったらあんなひどい字を人前で堂々と書くなんて絶対にできないとおっしゃるのです。
わたしの場合は字が下手なことにずっと引け目を感じて来ましたから、それを笑われたりすると一遍に委縮していたのです。先生が実例で出された東大教授のような優秀な方ならいくら字が下手でも引け目に感じることがなく、堂々と書けるのではと思い、それを先生に言いました。ところが、先生は、「その教授も自分の字が下手で学生には評判が悪いことくらいは分かっていたはずですし、それを自慢できることだとは思っていなかったはずです。教授が悪筆に悩んでいたかどうかは訊いたことがないので分かりませんが、それでも堂々と人前で書けるだけの強心臓を持っていたか、恥ずかしいと思いながらも仕方がないと諦めて書いていたのではないか」とおっしゃるのです。わたしにはどっちも無理なような気がしましたが、先生は後者なら誰でも出来るとおっしゃいました。
先生にはまず書道を続けることと、字はできるだけゆっくり大きく丁寧に書いて読みやすいものにするようにとアドバイスしていただきました。これは問題なく出来たのですが、それからが勇気が要ってしばらくアドバイス通りに実践が出来ませんでした。先生からは文章全部を書くのではなく、強調したい部分だけをホワイトボードに書くことを勧められました。この頃は、朝のミーティングではホワイトボードを全く使わないでやっていました。ある朝、勇気を出して「目標」という2文字だけホワイトボードに大きくゆっくりと書きました。わたしがホワイトボードの前に立ったときの皆の反応が忘れられません。この人は字が書けるのかという不安と驚きの顔でした。わたしは緊張していましたが、2文字だけですからなんとか書くことが出来ました。その後は、「何月何日までに」とか「○○万円の利益」とか強調したい部分を少しずつ増やして書くようにしました。すると不思議なことにホワイトボードの前に立ってもさほど緊張しなくなりました。以前はその前に立っただけで頭が真っ白になるような感じだったのにです。慣れて来たら、文章にも挑戦するようにしました。大抵、目標が3つか4つ必ずあるのですが、まず、そのうちのひとつだけ一番重要な目標を書くようにしました。このときは大変勇気が要って、文章の途中で緊張のあまり字が大きく乱れてしまいましたが、思わず「字が汚くて済みません」と言っていました。
これは先生が何度も言っておられたことなのですが、書痙にしろあがり恐怖にしろ神経症で苦しんでいる人は、自分が字が下手だとか、人前で話せないなどと絶対に言わない。それは自分の最大の弱点だと思っているから、隠そうとはしても、けっして暴露しようとはしない。だから先生は、こういう人には積極的に、「自分は字が下手で済みませんが」とか「自分は人前で話すのが苦手でして」などと最初に敢えて言わせるように指導しているとおっしゃるのです。実は、わたしも自分からは字が下手などとはなかなか言えなかったのです。ところが、この一言で、皆が笑い、字が下手なのも許してくれるような雰囲気になったので気が楽になりました。
その後、わたしはそれこそ清水の舞台から飛び降りる気持ちで目標全部を手で書くことに挑戦しました。ほんとうに緊張し手は震えていました。皆もはらはらしながら見ているという感じでした。しかし、書き終わったとき期せずして皆から拍手が起きたのには驚きました。皆わたしの努力を理解してくれていたのです。思わず胸がいっぱいになってしまいました。
この後、上司に呼ばれました。何かと思って応接室に行きますと、「よく頑張った」と言っていただいたのです。そして、「実は大事な部下を潰してしまったかと心配していた」とも言っておられました。上司も皆もわたしのことを心配してくれていたんだなということが痛いほど分かって、わたしは思わず上司の前で涙を流してしまいました。
最近は葬儀でも結婚式でもさほど緊張することなく記帳できるまでになりました。さほどというのは、やはりまだ人の目が気になりますし、少しは緊張もします。それを先生に言いましたら、「わたしも同じです」と言って笑っておられました。おそらく全く緊張しないという方も多いのかもしれませんが、多少の緊張はあっても字が書けるようになったことは大変な進歩であると思います。これも斎藤先生のご指導のお蔭だと感謝しています。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしは小学校、中学校では常に学年のトップを争う成績でした。ところが高校に入って成績が下がり始めました。学年でも中位を維持するのがやっとの状況で、なぜだろうと苦しみました。2年生の中間試験のときのことです。試験勉強をしなければならないのに、気になる女子生徒のことが頭に浮かんだり、買ったばかりのゲーム機のことなどが気になったりで勉強がはかどりませんでした。こういう雑念が起こるから勉強が出来ず成績も下がるのだと思って、試験勉強中はゲーム機を押入れに入れたり、女子学生とは教室でも顔を合わせないようにしたりして、この雑念を振り払おうとしました。ところがこれが却って逆効果で頭の中にこびりつくような感じになりました。試験の本番中にも雑念が沸いてきて、問題に集中ができなくなりました。お陰で成績は散々でした。成績は最下位に近く、人生で最初の挫折を味わうことになりました。
成績が悪いのを心配した母親が色々と煩く訊きましたので、勉強に集中が出来ないのだと打ち明けました。すると、どこで聞いてきたのか座禅やヨガが精神の集中に良いのではと言うのです。そこで座禅の道場に通ったり、ヨガの教室に入ったりしましたが、効果は一時的で長続きしませんでした。高校の成績が散々なのですから、大学の受験勉強にも身が入らなくなりました。受験勉強中には病院の精神科を受診したことがあります。ノイローゼだと言われて色々薬を試しましたが効果は余りありませんでした。今から思えば、精神科の診察や投薬は気休め程度のもので根本治療には役に立たないものだったと思います。結局、大学は2年浪人しても希望の大学に入れず、滑り止めの私立大学に入りました。希望していなかった大学ですが、自分の実力はこの程度なのだと諦めて授業には真面目に出ました。2年以上も味気ない受験勉強に明け暮れて来たあとですから、大学の授業は新鮮で興味が湧きました。お陰で、成績も良く、同好会ですが運動クラブなどにも入って3回生の半ばくらいまでは充実した学生生活を送っていました。問題が再発したのは3回生も終盤に入って将来の就職のことを考えたときでした。年齢も余計に喰っていましたし、大学も知名度が低いところですから一般企業への就職では不利だと思いました。そこで公務員試験を受けることにして、問題集なども買ってきました。ところが、高校時代の悪夢が再来してきたのです。問題集を前にして勉強しようとすると、「お前のような馬鹿が公務員になって世の中のためになるのか」というような雑念が沸いてきます。自分は何のために公務員になるのかと自問自答を繰り返し始めました。このままでは、また、受験に失敗するのではないかという強い恐怖を感じました。万一、就職にも失敗することになれば一生を棒に振ることになると思ったのです。そこで何か良い治療法のようなものがないかと思い、必死でインターネットの検索を始めました。そこで、見つけたのがこのサイトです。わたしの症状が「恐怖症」だということを初めて知りました。そして、斎藤先生に苦しい胸のうちを話しますと、先生が、「その苦しみはよく分かりますよ」と言ってくださり、思わず涙が溢れてしまいました。いままで、ずっと一人で悩み、苦しんできたことを真に理解してくださる方に初めて出会ったと思ったのです。先生のお話を伺って、まず目から鱗だと思ったのは、わたしの雑念恐怖は一種の癖のようなもので、考え方を変えれば必ず治るということでした。わたしは、すがるような気持ちで、どうしたら治るのかと伺っていました。
まず、雑念というものは誰にでも起こりうることだけれども、わたしの場合は、それを恐れる余り、少しの雑念でも、人の十倍も百倍も強く感じてしまうのだと言われました。そして、少しの雑念もあってはならないと、それを取り去ろうとする限り、絶対に、この恐怖は治らないと言われたのには驚きました。と同時に、わたしは取り去ることが出来ないものを、取り去ろうともがいていたのだということを知ったのです。先生は、これを「思想の矛盾」と表現されました。初めてのカウンセリングはあっという間に終わってしまいましたが、わたしは光明を見出したと思って感動いたしました。
それからしばらくはほぼ4,5日おきに相談いたしました。「思想の矛盾」ということは1回で理解したと思うのですが、どうしたらその矛盾を解決できるのかがなかなか分かりませんでした。先生は、「思想の矛盾」ということが分かれば、ほぼ50%は解決できたことになるけれども、それを100%に近づけるのには少し時間が掛かるとおっしゃいました。わたしは明日にでも100%に近づけたいと思うくらいに焦っていました。先生が、雑念が起きても、そのまま勉強を続けて、問題がどのくらい解けたか報告しなさいとおっしゃるので、そのとおりやりましたが、やはり雑念に邪魔されて捗りませんでした。「やっぱり駄目です。30点くらいしか解けません」と言いますと、「最初から、80点や90点取ろうとしては駄目だ。30点とは言っても、ちゃんと出来ているじゃないか。雑念があっても解けるということだ。あなたは出来ないところだけ見て、出来ない、出来ないと言っている」と言われて、頭をがんと打たれたような気になりました。そして、「雑念を100%取り去らなければ試験問題が解けないものだと思っている限り絶対に完治しない」とも言われました。「思想の矛盾」ということを理解した積りであったのに、自分はやはり雑念を取り去ろうと出来もしないことを繰り返していたのです。理解できるということと実践できるということが違うのだということがよく分かりました。それからも、「やはり出来ません」と、わたしは泣き言を繰り返していましたが、先生に、「少しずつ改善している。もう少し頑張りなさい」と励まされて、付いてゆきました。その頃、わたしはある予備校の通信講座で公務員試験対策の勉強をしていたのですが、模擬試験がありました。3千人以上が受験するもので、わたしはどうせ大した成績は取れないだろうと最初から諦めておりました。雑念が沸くと全く書けない小論文がありました。このときは、とにかく雑念が湧いても、書くだけ書いて終わろうと考えていました。すると、結果は自分でもびっくりしたのですが、上位10%以内の好成績だったのです。
先生に、この好成績のことを「たまたまです」と謙遜も込めて報告しましたら、「たまたまであっても、やれば出来るということだ。雑念があっても、ちゃんと出来るんだということに自信を持ちなさい」と諭されてしまいました。
それからも雑念が湧いて困ることがありましたが、そのたびに「雑念があっても自分は出来るんだ」と自分に言い聞かせながら勉強を続けました。お陰で、希望していたK市の採用試験に合格することが出来ました。
もっと早くこのサイトに出会っていれば大学受験にも失敗しなかったかもしれないと思うと悔しい気持ちですが、いまは晴れて公務員になれたことの幸運に感謝しています。まだ、駆け出しで毎日が新しいことの連続ですが、その所為か雑念が沸く暇も無いというところです。それでも、退屈な会議などでは、つい色々なことを考えてしまいます。しかし、今は、「そんなことは誰にでもあることと」と受け流せるようなりました。この先、問題に直面することはあると思いますが、きっと乗り越えて行けるのではという自信のようなものも感じられるようになりました。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしがガス栓が気になって外出もままならなくなったのは40歳になったばかりの頃でした。その日、買い物に出かけて帰宅すると、玄関を開けた途端に家の中が凄い煙で火事だと思いました。慌てて家の中に飛び込むと、火元はキッチンです。わたしは煮物の鍋に火を付けたまま外出してしまったのです。煙は煮物と鍋が焼けて焦げたもので、その煙といい焦げた匂いといい凄いものでした。幸い、発見が早く、水道の水をかけて消火することが出来ました。しかし、もう数分でも遅かったらと思うと今でもぞっとします。それ以来、外出するときは火が消してあるか、ガス栓は閉まっているかを何度も確認するようになりました。最初の頃は、何回か確認して納得するとあとは問題ありませんでしたが、そのうちに外出先で気になるようになりました。気になりだすと居ても立ってもいられないような気持ちになり、買い物も早々に切り上げて帰宅するようになりました。
わたしも夫も音楽会や演劇が好きで、独身時代から月に一度は必ず一緒に出掛けていました。ところが、楽しいはずの演劇を見ていても途中から家のことが気になって楽しむどころでは無くなってしまいました。音楽会や演劇のあとでは一緒に食事をすることも多かったのですが、それがままならなくなりました。食事を楽しみにしていた夫が「どうしたのか?」と訊きますので、「ガス栓のことが気になって」と正直に言いました。すると、夫が、「馬鹿だな。そんなこと気にするなんてどうかしている」と頭から軽蔑するように言ったのが心に堪えました。わたしも、そんなこと気にしたくはないのですが、どうにもなりません。そのうち音楽会にも演劇にも同行できなくなりました。夫からは呆れられ、病院の精神科で診てもらえと言われたのはショックでした。それ以来、夫にも本当のことが言えなくなりました。心の悩みに関する本を買って勉強したり、精神科を受診して相談したりしました。病院はいくつか通いましたが、どこも薬をくれるだけです。それでも一時は良くなったような気持ちになったことはありましたが、悪くなる一方でした。斎藤先生に出会って、薬は一時的な気休めにしかならないと言われましたが、まったくその通りだと思います。
先生に相談して、まず分かったことは、わたしが苦しんでいたのは、不全感を拭えないことに対する恐怖だったということです。わたしはガス栓が閉まっていることを何度も自分の目で確認していますから、自分でも閉まっているはずだと思うのですが、心の中から突き上げて来る不安に抗えなかったのです。いまでも、先生に言われたことが忘れられません。「あなたのご主人はガス栓のことを気にされることはありませんか?」と訊かれましたので、「主人はそんなことを気にするような人ではありません」と即座に答えました。すると、先生は、「もしご主人も、あなたと同じようにもう一歩で火災になるところだったというような経験をしておられたら、少しは気にしたはずです。少しは気にするが、会社での仕事のことや同僚との付き合いのことなどに関心が移って、永く気に留めないのです」とおっしゃいました。わたしは夫はもちろんのこと、近所の主婦の皆さんと比べても、わたしのような心配性の人間はいないと思っていましたから、夫でも気にすることがあるはずだとおっしゃられたときには目から鱗のような気持ちになりました。今から思えば、誰でも心配することがあるなんて当たり前だと分かるのですが、当時は、わたしだけが心配性でどうしようもない人間だと思い込んでいました。
先生は、また、「人間ならば誰でも風をひくことがあるように、誰でも強い不安を抱くことはある。風邪の場合、会社や学校を休んで安静にしていれば自然に治ってしまうけれども、中には、あれこれと要らぬ治療をして風邪をこじらせる人がある。いまのYさんは、いわば風邪をこじらせた状況で、専門家でなければ容易に治せない状況になっている」ともおっしゃいました。しかし、「必ず治りますよ」という先生の言葉を信じて相談を続けました。
最初の頃、先生から3回まで確認したら、とりあえず他のしなければならないことに移るということを実践しなさいと指導されました。ところが、3回ほど確認してから家の掃除などを始めるのですが、やはりガス栓が気になって仕方がありませんでした。そうなると元の木阿弥で、また、確認行為をしてしまうのです。そして、凄い敗北感と罪悪感でどうしようもなくなりました。それを先生に相談すると、「気になるのは永年の癖ですから仕方ありません。気にしても良いのです。気にしないようにすればするほど気になるでしょう。気になっても構いませんから、掃除を続けてください」と言われて、わたしは何か頭をごつんと叩かれたような気持ちになりました。それまで、わたしはガス栓が気になりだすと、その気になることを心の中から払拭しないかぎり何も出来ないと思い込んでおりました。それからは、気にしながら家事をこなすということの実践の繰り返しでした。最初はそれでもやはりどうしても確認行為を止められないこともありました。そのたびに、先生からは少しずつ出来るようになって来ているのだから、出来ない自分を責めないで、出来ている自分を褒めながらやってくださいと励まされ、これを続けました。
3ヶ月くらいすると、ガス栓のことが気になっても、掃除も洗濯も出来るようになりました。買い物に出ても、以前のように飛んで帰るというようなことが無くなりました。こうなると不思議なことに、それまで寝ても醒めてもガス栓のことばかり考えていたのが、家事をしているときには忘れていることもあることに気が付きました。考えてみれば、確認恐怖に陥る前の自分はこうだったのです。わたしは、先生が、「確認恐怖で苦しむ前の自分はそうでなかったのだから、それを取り戻すことが出来るはずです。それを思い出すことが治療の手掛かりになります。解決の鍵は、自分の記憶の中にある」とおっしゃっておられたことを思い出しました。まさに、昔の自分の感覚を取り戻したと思いました。
それを先生にご報告しますと、先生も大変喜んで、「もう少しですよ」と励ましていただきました。そして、「ご主人と音楽会に出かけてみたらどうです」と勧められました。
わたしはそこまで回復しているとは思いませんでしたから、躊躇してしまいました。もし、夫にもう大丈夫だなどと言って、やはり飛んで帰るようなことになったら、きっと落ち込んでしまうに違いないと思ったからです。それを先生に相談しますと、「失敗したら、失敗したで一からやり直したらいいじゃないですか。落ち込んでも大丈夫ですよ。必ず立ち直れますから。思い切り心配しながらやってみたらどうですか」と、肩を推されました。
わたしは、ほんとうにドキドキしながら、久しぶりに行ってみたいと思っていた音楽会のことを夫に話してみました。すると、夫はやはり心配そうでしたが、行ってみようということになりました。
もう、その日は朝からドキドキでした。しかし、先生の、「ドキドキしながらやったら良いですよ」という言葉を胸にしまいながら、音楽会に出掛けてみました。すると、やはり音楽会の途中でも、そのあとの食事のときもガス栓のことが気になりました。しかし、「気にしながら、いまのことをやる」と言い聞かせて、最後まで夫と一緒に過ごしました。夫は驚いたように、「どうやって治したのか?」と訊きましたので、クリニックで相談したことと、実は、まだ少し不安があるのだということも正直に話しました。すると、夫が、「ここまで出来るようになったなら上出来だよ。よく頑張ったね」と慰めるようなことを言ってくれたので、思わず泣いてしまいました、これまでの辛かったことが一遍に込み上げて来たのです。
まだ、ガス栓を3回確認しないと他の行為に移ることは出来ません。しかし、先生からは、無理に止めようとしなくて良いと言われて気持ちが楽になりました。自然に回数が減るようになるはずだとも言われています。いまのままでも家事にも人とのお付き合いにもほとんど支障が無くなったと思います。
先生に相談を始めた頃、わたしの確認恐怖は「ちょっとした勘違い」が原因だと言われたときには大いに反発を感じました。わたしの苦しみはそんな単純なものじゃないと。しかし、わたしは不安を取り去らない限り何も出来ないという勘違いを永い間繰り返して恐怖に陥っていたのです。こうして克服してみて初めて、先生がおっしゃったことがよく分かりました。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
わたしが人の視線が気になりだしたのは、高校生になってからです。当時、郷里の女子高まで1時間近く電車で通学していました。その頃は少し太り気味であったのを、あるとき友達にからかわれてから、人目が気になるようになりました。電車の中では小説などを読んでいましたが、ふと目を本から逸らして、前の人を見ると、視線が合って気になりだしました。もしかすると、自分の容貌のことを笑っているのではないかなどと考えると、視線があざけっているように思えて居心地が悪くて仕方がありませんでした。そういうことが何度もあって、とうとう人と向かい合って座席に座ることが出来なくなりました。そして、1時間近く立ちっぱなしで、しかも、人と目を合わせるのが嫌で本を見っぱなしということになりました。この頃、少女雑誌か何かの悩み相談で相談したことがありました。回答によれば、自分が笑われていると思って相手を見ると、相手のちょっとした仕種でも、そう思えるものなのだ。だから、主観の問題で、実際に相手がそう思っていることはほとんど無いというものだったと思います。わたしも、この回答には納得して、そう思うようにしていました。しかし、それでも電車で座席に座るのには抵抗を感じていました。
高校を卒業して短大に進み、秘書の専門学校を出て今の会社に就職しました。秘書という仕事に対する憧れがありましたが、心の底には余り人と目を合わせて仕事をするようなことが少ないという気持ちがあったと思います。視線恐怖が自分の人生の選択にも影響していました。ところが会社に入って配属されたのは総務でした。総務を経験してから秘書というパターンが多いと聞いていましたから、その一ステップだろうと思いました。最初の1年は部内の経理のような仕事でしたが、そのうちに庶務の仕事に回されました。庶務というのは仕事の範囲が広く、社員の出張旅費の計算もあれば、社宅の世話もあるというように社内のよろずやのようなものです。会社の福利厚生の制度などが変わると、各部署の担当者を集めて説明しなければならないという場面も増えて来ました。新人で慣れないということもありましたが、こうした場でおどおどしていると何か嘲られているような気がして落ち着かなくなりました。何十人もの人を前にして、一斉に視線を向けられると、不安と恐怖でいたたまれない気持ちになって説明もしどろもどろになってしまうこともありました。上司からは、「相手の目を見て、しっかり説明しなさい」と注意されるのですが、とても、そんなことは出来ません。あるとき、勇気を出して、皆を睨み返すようにして説明をしたことがあるのですが、社員から視線がきついと注意を受ける有様で、自分ではどうしたら良いのか途方に呉れてしまいました。上司には、自分はこういう仕事には向かないので秘書に回してくれと直訴したことがあります。しかし、上司から、「あなたのようにちゃんと相手を見ないで話す態度は相手に不快感を与える。いまのままではお客様と接する機会が多い秘書の仕事は無理だ」と言われてショックを受けてしまいました。このままでは仕事を続けられないと悩んでいたときに、お茶の水メンタルクケアサービス(注:お茶の水メンタルオフィスの前身)が主催するフォビア克服講座を見つけ、これに参加しました。毎週週末に文京区役所がある建物の中の会議室に色々なタイプの悩みを持っている方たちが集まり、互いの悩みを打ち明け、どうしたら解決できるのかを自ら発見するという講座でした。最初に、山村先生からフォビア(恐怖症)がなぜ起きるのかについて分かり易く説明がありました。そのあと、なぜ、こうして色々なタイプの人を集めて講座を開くのかということについて興味深いお話がありました。そこにはあがり恐怖の方や赤面恐怖の方、そして、わたしのように視線恐怖の方もおられました。先生がおっしゃるには、悩むタイプは違うけれども、フォビアを発祥するメカニズムは皆同じだというのです。メカニズムが同じなのに、なぜ、ある人はあがることに恐怖し、赤面することには恐怖しないのか、赤面することには恐怖しても、なぜ、視線には恐怖しないのか。つまり、あることには恐怖するのに、ほかのことには恐怖しないという不思議の中に解決の道がある。それを分かって貰うために多くのタイプの人に集まっていただいているというのです。初めは、この説明を聞いても、それがどういうことなのか理解できませんでした。わたしの心の中は、なんとしても視線恐怖を克服したいという一念ばかりが支配し、ほかのあがり恐怖や赤面恐怖などには全く関心が無かったからです。ですから、こうして色々なタイプの人が集まっているということ自体に違和感を覚えていました。
講座は4週間にわたってありました。2週間目に参加者がそれぞれの体験を発表しました。中には、いままでの辛かったことを涙ながらに話す方もいて、話を伺いながら、わたし自身も辛くなることがありました。わたしの悩みはまだましなほうだとも感じました。この日は、全員の話を聞いてから、なぜ、そうした苦しみに陥ったのか、話を伺っただけでは分からなかった点について質問をしました。先生から、次週は「なぜ、ほかのことについて恐怖を感じないのか、を中心にお互いに質問をしてください」とご指示があって、皆、ええ?っと首をかしげてしまいました。なぜ、恐怖に陥ったのかについては先生の講義もあって分かったのですが、なぜ、恐怖に陥らないのかは考えても分からない気がしたのです。3週目の講座のときには、最初、誰からも発言が無く、先生が指名する形で進んでゆきました。先生が、赤面恐怖の方に、「あなたもあがることはあるでしょう。では、なぜ、あなたはあがり恐怖にはならないのですか?」と質問します。すると、その方は、「あがるってことが怖いというのがよく分からないのです」と言います。すると、あがり恐怖の方が、「ええ? あなたはあがって困ったことって無いのですか?」と質問します。赤面恐怖の方が、「いや、わたしだってあがるのは嫌ですよ。だけど、それが怖いというのがよく分からない。だって、あがることなんて誰にでもあることでしょう」と答えるというように進んでゆくのです。面白いと思ったのは、あがり恐怖の方が、こんどは赤面恐怖の方に向かって、「赤面だって皆あるんじゃないですか。わたしだって赤面しますよ。赤面すれば、自分だって嫌だと思うこともあるけれども、恐怖するということは無いですね。なんであなたが恐怖するのか不思議ですね」と言って、次々と議論が発展してゆくのです。
こうしたやりとりの中で、わたしは多くの方が、若い頃にやはり視線が気になって困ったことがあったとおっしゃったのには驚きました。中には、人の視線を永い間避けていたという方もおられました。こうなると立派な視線恐怖の予備軍だと思うのですが、この方はいつの間にか、そういうことは自然に無くなったといいます。わたしは、若い頃にやはり視線が気になったという方一人ひとりに、「なぜ、恐怖に発展しなかったのでしょう?」と繰り返し質問しました。中には、わたしが少女雑誌から得た回答と同じようなことを言う方もおられましたが、一番多かったのは、「視線が合えば、やはり不快だし、色々な感情が湧いてくる。しかし、それはそういうもので仕方が無いと思っているからではないか」ということでした。これは実に大きなインパクトをわたしに与えてくれたと思います。つまり、視線が怖い、あるいは不快だと思うのはわたしばかりでは無かったということを知ったということです。わたしは、まるで自分ひとりがこういう苦しみを抱え込んでいるような錯覚を起こしていたのだと思います。視線を恐れるのは異常なことだと思い込んで、当たり前のことだと受け入れることが出来なかったのです。そして、それをあってはならないことだと無理な闘いをしていたのです。わたしは、この第3週目の講座が終わる頃には、何か永い間の悩みの暗闇に明るい日差しが差し込んできたような開放感を感じていました。おそらく、ほかの方たちも同じだったと思います。第4週目の最後の講座では、それぞれがこの講座で何を学び、これを今後にどう生かしてゆくかなどを話し合いました。ほとんどの方が、この講座で克服のきっかけを掴んだと言っておられました。
わたしは、この講座を受けてから、人と目が合って、嫌な感情が湧いてくると、この講座で遭った人たちが言っていたことを思い出しました。そして、心の中で、「そういう感情もあるよね」と言い聞かせるようにしました。すると、今まで、その嫌な感情と闘っていたことが馬鹿らしくさえ思えて来たのです。とは言っても永い間染み付いた視線恐怖ですから、たちどころに克服というわけには行きませんでしたが、あるとき、上司から、「最近、表情が穏やかになったね。何か良いことでもあったのか」と言われたときには、ほんとうに心から喜びが湧いて来ました。それまで、恐怖で張り詰めていた心が開放された証拠だったのです。このときの嬉しかったことはいつまでも忘れることが出来ません。この喜びをお伝えしたくて、先生にお礼のお手紙をお出ししたところ、この体験記を書くことを勧められました。わたしのつたない経験が何かのお役に立てればと思います。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
森田療法は森田理論、森田式精神健康法、森田式精神療法などとも呼ばれますが、慈恵会医科大学の初代精神科医だった森田正馬(まさたけ、通称しょうま)(1874年-1938年)が始めたものです。その後、慈恵会医科大学病院の医師らが受け継いで現在に至っています。フロイト(1856年-1939年)より18年遅く生まれていますが、ほぼ同時代を生きていました。当時は日本でもフロイト流の精神分析がもてはやされていた時代ですが、森田はフロイトの考え方は目的論的で非科学的であり現実の治療には役立たないと批判的でした。日本では恩師で東京帝国大学医科大学精神科教授の呉秀三、同医科大学病理学三浦守治などに影響されたと言われています。しかし、自分の治療実践の中から独自の科学的理論を生み出したもので、日本独自の療法として世界でも高く評価されています。森田療法は今日一般に神経症あるいは恐怖症と呼ばれている精神疾患を治療するものですが、その特色は、原因を「心のからくり」にあるとし、治療の基本は「あるがまま」の自分を受け入れることにあるとしていることです。「心のからくり」とは、通常誰にでもあり得る不快感や違和感をことさらに異常視し、これを排除しようとして闘うことによって悪化させ固着させることを言っています。森田は、誰にでもあり得る不快感や違和感を排除しようとすることを、出来ないことを出来ると思ってするという意味で「思想の矛盾」と言っています。つまり、治療には、この「思想の矛盾」を断ち切り、出来もしないことをするのではなく、不快感や違和感をそのままうけいれ実践の中で解消してゆくことが必要だと言っています。これが「あるがまま」の自分を受け入れるということです。
「心のからくり」ということは比較的容易に理解されると思いますが、「あるがまま」を受け入れるということについては、一般に理解が難しいかもしれません。神経症や恐怖症で苦しんでいる人に、その苦しみを「あるがまま」に受け入れろと言ったら、冗談じゃないということになり兼ねません。「あるがまま」の自分を受け入れるというのは通常誰にでもあり得る不快感や違和感を受け入れることを言うのであって、神経症や恐怖症にまで悪化した不快感や違和感を受け入れろということではありません。受け入れろと言っても、重症の場合は、なかなか自力で通常誰にでもあり得る不快感や違和感にまで戻ることは難しいですから、森田療法では入院による治療(臥褥療法)も行っています。通常は通院によるカウンセリングで指導し治療します。基本的に薬剤は使いませんが、緊張が激しい場合などには精神安定剤が併用されることはあります。
東京メンタルオフィスの主宰者である斎藤義夫は自身が対人恐怖症で苦しんでいたことから東大の学生時代に森田正馬の著作に出合いました。その考え方が科学的合理的で明快であることに感激し、私淑しました。自身の専門である心理学の卒業論文は森田理論を応用したものです。社会人になってから一時期対人恐怖症を再発したことから、森田理論を一から勉強し直し、森田療法の自助組織である生活の発見会にも長く参加して来ました。2004年にメンタルヘルスの専門会社MECCA・JAPANを設立したのを機にフォビア克服講座を開設しました。講座では講習会や研修会を通じて森田理論を実践し、多くの型を克服に導き、その理論の有効性を広く紹介して参りました。斎藤はとかく言葉づかいが古く理解しにくいと言われる森田理論を平易な言葉に置き換えて説明しています。たとえば、「心のからくり」は「ちょっとした勘違い」に言い換え、「あるがまま」の自分を受け入れることについては誤解を招きやすいことから、言葉ではなく実践指導の中で具体的に説明しています。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)
森田療法は森田理論、森田式精神健康法、森田式精神療法などとも呼ばれますが、慈恵会医科大学の初代精神科医だった森田正馬(まさたけ、通称しょうま)(1874年-1938年)が始めたものです。その後、慈恵会医科大学病院の医師らが受け継いで現在に至っています。フロイト(1856年-1939年)より18年遅く生まれていますが、ほぼ同時代を生きていました。当時は日本でもフロイト流の精神分析がもてはやされていた時代ですが、森田はフロイトの考え方は目的論的で非科学的であり現実の治療には役立たないと批判的でした。日本では恩師で東京帝国大学医科大学精神科教授の呉秀三、同医科大学病理学三浦守治などに影響されたと言われています。しかし、自分の治療実践の中から独自の科学的理論を生み出したもので、日本独自の療法として世界でも高く評価されています。森田療法は今日一般に神経症あるいは恐怖症と呼ばれている精神疾患を治療するものですが、その特色は、原因を「心のからくり」にあるとし、治療の基本は「あるがまま」の自分を受け入れることにあるとしていることです。「心のからくり」とは、通常誰にでもあり得る不快感や違和感をことさらに異常視し、これを排除しようとして闘うことによって悪化させ固着させることを言っています。森田は、誰にでもあり得る不快感や違和感を排除しようとすることを、出来ないことを出来ると思ってするという意味で「思想の矛盾」と言っています。つまり、治療には、この「思想の矛盾」を断ち切り、出来もしないことをするのではなく、不快感や違和感をそのままうけいれ実践の中で解消してゆくことが必要だと言っています。これが「あるがまま」の自分を受け入れるということです。
「心のからくり」ということは比較的容易に理解されると思いますが、「あるがまま」を受け入れるということについては、一般に理解が難しいかもしれません。神経症や恐怖症で苦しんでいる人に、その苦しみを「あるがまま」に受け入れろと言ったら、冗談じゃないということになり兼ねません。「あるがまま」の自分を受け入れるというのは通常誰にでもあり得る不快感や違和感を受け入れることを言うのであって、神経症や恐怖症にまで悪化した不快感や違和感を受け入れろということではありません。受け入れろと言っても、重症の場合は、なかなか自力で通常誰にでもあり得る不快感や違和感にまで戻ることは難しいですから、森田療法では入院による治療(臥褥療法)も行っています。通常は通院によるカウンセリングで指導し治療します。基本的に薬剤は使いませんが、緊張が激しい場合などには精神安定剤が併用されることはあります。
東京メンタルオフィスの主宰者である斎藤義夫は自身が対人恐怖症で苦しんでいたことから東大の学生時代に森田正馬の著作に出合いました。その考え方が科学的合理的で明快であることに感激し、私淑しました。自身の専門である心理学の卒業論文は森田理論を応用したものです。社会人になってから一時期対人恐怖症を再発したことから、森田理論を一から勉強し直し、森田療法の自助組織である生活の発見会にも長く参加して来ました。2004年にメンタルヘルスの専門会社MECCA・JAPANを設立したのを機にフォビア克服講座を開設しました。講座では講習会や研修会を通じて森田理論を実践し、多くの型を克服に導き、その理論の有効性を広く紹介して参りました。斎藤はとかく言葉づかいが古く理解しにくいと言われる森田理論を平易な言葉に置き換えて説明しています。たとえば、「心のからくり」は「ちょっとした勘違い」に言い換え、「あるがまま」の自分を受け入れることについては誤解を招きやすいことから、言葉ではなく実践指導の中で具体的に説明しています。
(コピーライト:お茶の水メンタルオフィス)